公開: 2024年6月2日
更新: 2024年6月2日
多くの日本人は、問題の本質を、直接的に議論することを避ける傾向があるようです。日本人同士の議論では、問題の本質を突く論争を正面きって行うことを嫌います。議論の参加者たちは、その場の「空気を読んで」、議論を戦わせている当人同士の「メンツ」を失わせないような、「玉虫色」の折衷案(せっちゅうあん)を提案して、会議の合意とするやり方を採ります。
西洋式の教育を受けた人々には、それは「本当の問題の周りを、わざといつまでもグルグルと回り続けている」ように見えるのです。これは、日本の文化に基づいた、古典的な議論のやり方のようです。しかし、私たち日本人には、それが我々の身に沁みついた、ごく自然なやり方なのです。多くの日本人には、そのやり方が、「意図的に議論を避ける」ためのものであるとは、思わないのです。
日本社会では、真剣な議論で、相手から論破されることは、自分の人格を否定されることと変わりありれません。将棋や囲碁で、対戦している当事者の一方の形勢が不利になると、最後までは戦わず、「投了」して負けを認めます。これも、自分の「負け姿」を晒(さら)すよりも、「負け」が明白になる前に、勝負を終わらせ、自分の「面目」を守る方が、「潔(いさぎよ)い」と考えられるからです。議論においても、「白黒」を明確にしない方が良いと、日本人は考えているのでしょう。
日本人にとっては、「論理的な正しさ」を示すよりも、「人間関係を維持すること」の方が、重要なのです。この日本人の人間関係を重視する姿勢が、法律的な問題を議論している場合には、問題を明確にせずに、議論を終わらせることになり、数十年後に、同じ問題で、似たような議論を繰り返すことになる例も、少なくありません。